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注染の源流

奈良東大寺内にある正倉院(しょうそういん)に現存する飛鳥・奈良時代(西暦603〜797年)
に行われていた「纐纈(こうけち)」「臈纈(ろうけち)」「夾纈(きょうけち)」の三榔染めが最
も古い文様染色技法であり、中国大陸から伝来したものと云われている。


■1. 纐纈染め(こうけち又はけつ)
絞染(しぼりぞめ)の名、布帛を糸でくくって浸染(しみぞめ)をする、模様染としては最も古い。

※纐=しぼる。しめる。 纈=むすぶ。ゆわえる。

■2.纐纈染め(こうけち又はけつ)
樹脂とろうとの溶融(ようゆう)物で模様を描き、任意の部分を圧して亀裂模様を
生じさせて染液中に浸す。
古くインドに起こり、中国経由で日本に伝えられ当時代に盛行。現在も帯、
ネタタイ、のれん等に応用されている。

■3.夾纈染め(きょうけち又はけつ)
板締め染めで、2枚の板に左右対称の文様を彫り、その間に布を挟み、ひも
で固くしばり浸染(しみぞめ)するか、染料を流し込むかであって、この技法は現
在では殆ど使用されていない。
板締めで防染をして、染料を注ぐという原理から、注染めの源流が文細染め
にあることがわかる。但し正倉院御物(ぎょぷつ)の夾纈染めは多色染めであり、
古代の「夾纈染め」が如何にして染色されたのかは、現在の知識をもってし
ても不明な点が多いとされている。

※夾=まざる。 御物=皇室の所蔵品。

■4.夾纈染めとおむつ
雪花絞り
生地を折たたみ積重ねて三角柱とし、これを三角形の木板に挟み、三隅を染
色する方法で、生地の折りたたみ方で各種のぽかし調絞り柄の染出ができ、
昭和30年(1955年)頃までは「おむつ」の柄物として、麻模様が中心に使用
されていた。

注染の沿革(移り変り)

■1. 遠く天保年間(1832〜1841年に渋紙で手拭の模様型を作り、木綿の上にこの型
紙を置き、土粒を練って型紙の上から竹ぺらで塗り付けて防染した後、藍瓶の
中に浸漬(ひたしづけ)して染め上げる方法が注染の原型と云われているが、明治
維新直後(慶応3年.1867年頃、藍玉相場が暴騰した為、人造染料の輸入が盛んとな
り、手拭染めもこの染料を使用する様になり、型紙や折り返し糊置の繰り返し
が開発された結果、染料を注ぎかけて染める様に改善された。即ち浸染(しみぞめ)
から注染に大きく変化したのである。
その後、この染色方法による手拭専門の加工業者が主流となり、染屋の呼稱も
紺屋から手拭屋に変化し、家内工業として―歩前進した。

■2.更に日露戦争終了後(1905年.明治38年頃)、合成染料が輸入されるや手拭の図柄も
―色染めから多色染めになり、柄も次第に複雑化されるに伴い糊料(こりょう)も糯
粉(もちこ)を主とし、型紙も伊勢型紙が使用されるようになり、改良に改良を重
ね時代と共に進展し、現在の加工工程の原形となった。

■3.明治前期における業界の発展は手拭を染める事を専業としたものであるが、
明治中期に入り、東京に於いて長板浴衣が大流行し、これに対抗するため大阪
地方の手拭加工業者がなんとかして注染(手拭式)の染法で浴衣を染色したいと
種々研究の結果、1903年(明治36年)大阪西区立売堀のはり入染エ場(責任者 松井
元次郎氏)が天王寺で開催された第5回内国勧業博貰会に注染浴衣の新製品を出
品して入賞し、好評を博した。
以来、手拭中形又は折付中形と称し、東京の長板浴衣に対抗して市場に進出、
今日の注染(別名.本染め)浴衣の基礎を成した。
明治末期には東京から手拭式浴衣の加エ技術習得のため、数多くの職人が来阪
する―方、大阪よりも技術者の多くが上京し指導した。
以後、更に型紙、染色台の改善や水洗機等各工程に改良が加えれ現在の設備と
なった。

■4.古くから、この業界は工場規模が零細で家内工業的なものであり、組織化さ
れていなかった為、業界の沿革などが記された文献が皆無であり、この記述は
口碑(こうひ)や古老の口伝えに基づいたものである。

※口碑=言い伝え、伝説

■5. 注染業者は第2次世界大戦前は大阪市内の阿波座や東横堀川沿に集中して
いたが、1942年(1942年)に公布発令された企業整備令に基づき、戦事遂行
のため、企業の統合や転廃業に追い込まれ、その数は激減してしまった。
戦後になって、国民1人当り手拭1枚分が白生地で配給されるように、年間で
7.500万枚分の衣料切符が発行されていた。
大阪府織物染色共同組合の初代理事長が、戦後の混乱した時代に注染業界が
復興するには、政府行政庁に陳情し、物資の供給を受けて再建を図る以外路なし
との信念から、全国の業者に呼びかけ、1946年11月(昭和21年)全国組織である
日本柱染和晒工業会を結成して、通産省へ陳情を重ねた結果、1948年2月(昭和23年)
注染め手拭2.000万枚の加工配給が決定した。
これを機に、業者達が次々に復帰、独立し良質な水を求めて大阪から大和川や
石津川周辺に移住し現在に至っている。
※初代理事長石田金四郎氏 1949年7月(昭和24年)逝去57才
※注染組合員 堺、柏原各8社、京都、奈良各エ社 計18社
※1985年7月(1985大阪府より「浪華本染浴衣」として伝統工芸品の指
定を受ける。浴衣としては全国で唯―。

和晒と注染

和晒は「和泉名所図絵」”1717年享保(きょうほ2年)”において「石津川の
ぬのさらし」として紹介されており、木綿に晒加エを行い染下生地として大阪
に出荷されていたことが記されている。
この和晒産業は堺市を中心に発展して来た、その理由は石津川の水質や自然条
件が和晒加工に適していたことが大きな要因である。
しかし、昭和30年代になり地盤沈下や水質汚濁(おだく)等の問題が発生した為
石津川の水使用が禁止され、昭和40年代には工業用水の使用が義務づけられた。
以降は薬品を使用した化学的な方法で漂白が行われるようになり現在に至って
いる。いずれにしても白工程がなけれは染色業は成り立たず、注染と和晒は
長い歴史の中で共に成長、発展して来た。
※組合員8社



大阪府織物染色協同組合 資料より
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